(40)「義和団事件」

義和団事件(1899-1900)

□宗教的集団の義和団が排外運動を展開、キリスト教会や鉄道を襲撃

・「扶清滅洋」をスローガンとした

□清国政府は義和団を支持、列国に宣戦布告した

□北京の列国公使館が包囲された

・事件は山東省から始まり北京へと拡大していった

□日・英・米・露・独・仏・伊・墺の8か国が出兵・鎮圧

・日本は「極東の憲兵」と評された

義和団事件のことを北清事変ともいう

 

②北京議定書(1901)

□清国と11か国(出兵した8か国と仲介3か国)との間で調印

□清国の賠償金の支払い、北京の公使館所在区域の治外法権、外国軍隊の北京駐留権などが取り決められた

 

義和団事件後もロシアは満州に軍隊を駐留させた

□清露間で満州還付協定が結ばれた(1902)が、ロシアは撤兵しなかった

□ロシアは韓国領内にも進出(1903)

(39)「日朝関係と中国分割」

①朝鮮に閔妃派の親露政権成立(1895)

 

閔妃殺害事件(1895)

□駐朝公使・三浦梧楼の指揮で閔妃を殺害、大院君の親日政権が成立した

 

③国王・高宗がロシア公使館へ逃れ(露館播遷)、親露政権が成立(1896)

 

④朝鮮は国号を大韓帝国(韓国)と改称(1897)

□高宗は王宮へ戻り、国号を改めた

下関条約によって清の冊封体制から離脱、独立国となったことによる

 

日清戦争後、列強は中国へ進出して勢力範囲を確保していった

□「眠れる獅子」と呼ばれていた清の弱体化が日清戦争の敗北によって露呈した

□列強の租借地(領土の一部を借用することを租借という)

・ドイツ:山東半島の膠州湾

・ロシア:遼東半島の旅順・大連

・イギリス:九竜半島・威海衛(山東半島

・フランス:広州湾

□ロシアは東北地方、ドイツは山東地方、イギリスは長江流域と広東東部、フランスは広東西部と広西地方、日本は福建地方を勢力範囲とした

・日本は福建省の不割譲を清に認めさせた

 

アメリカの門戸開放宣言(1899-1900)

□中国進出に出遅れたアメリカは、国務長官のジョン・ヘイが門戸開放宣言(中国の門戸開放・機会均等・領土保全)を列国におこない、アメリカの中国進出の姿勢を示した

・門戸開放宣言は、それまでのアメリカのモンロー宣言(ヨーロッパに干渉しないかわりにヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への介入に反対するという相互不干渉の表明)に基づく外交姿勢を転換させたものであった

(38)「立憲政友会の結成と政界の動き」

立憲政友会結成(1900)

憲政党伊藤博文が接近、憲政党を解党して結成された

□総裁は伊藤博文

西園寺公望・星亨・片岡健吉・尾崎行雄原敬らが党員

□「万朝報」に幸徳秋水の「自由党を祭る文」が掲載された

・旧自由党系の憲政党伊藤博文立憲政友会を結成したことを批判

・「嗚呼自由党死す矣」などの文言

 

②第4次伊藤博文内閣(1900-01)

□第2次山県有朋内閣の後に成立

立憲政友会を中心とした内閣

貴族院との対立などが原因で退陣

立憲政友会と、山県有朋系の官僚や貴族院が対立

 

③元老

□元老は非公式な天皇の最高顧問で、首相の推薦などをおこなった

伊藤博文山県有朋は元老として権力を行使した

伊藤博文は1889年から、山県有朋は1891年から元老

・伊藤・山県以外に元老となった者は、黒田清隆松方正義井上馨西郷従道大山巌桂太郎西園寺公望

 

④桂園時代

□第4次伊藤博文内閣の後、桂太郎西園寺公望が交代で組閣

・第1次桂内閣(1901-06)→第1次西園寺内閣(1906-08)→第2次桂内閣(1908-11)→第2次西園寺内閣(1911-12)→第3次桂内閣(1912-13)

山県有朋を背景とした藩閥・官僚の勢力が桂太郎を支持した

西園寺公望伊藤博文の後、立憲政友会の総裁となった(1903)

桂太郎は長州出身で西園寺公望は公家出身

(37)「第2次山県有朋内閣」

①第2次山県有朋内閣(1898-1900)が成立

□第1次大隈重信内閣の後に成立

□旧自由党系の憲政党を与党とした

 

②地租増徴案が成立(1898)

□地租を2.5%から3.3%に引き上げた

 

③文官任用令改正(1899…公布は1893)

□政党員が官吏になることを制限

憲政党は野党に転じて政府を批判

 

④文官分限令制定(1899)

□官吏を罷免されにくくした

 

軍部大臣現役武官制制定(1900)

□軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)になれる者を現役の大将・中将のみとした

 

⑥治安警察法制定(1900)

□社会運動を規制

 

衆議院議員選挙法改正(1900)

□選挙権:直接国税納入額を15円以上から10円以上に引き下げた

・選挙権を持つ者が1.1%から2.2%へ増加

□被選挙権:納税額による制限を撤廃

小選挙区制から大選挙区制へ改めた

□無記名秘密投票制を採用

(36)「日清戦争」

甲午農民戦争(東学の乱・1894)

□朝鮮で民衆宗教・東学の信者・全琫準が農民を率いて反乱を起こした

・東学の開祖は崔済愚

・東学とは西学(キリスト教)に対する呼称

□朝鮮政府が清に出兵を要請、日本も朝鮮へ出兵した

・天津条約の規定通り両国は出兵を互いに通知

□反乱収束後も日清両国は朝鮮から撤兵せずに対峙

 

②日本が朝鮮の内政改革を日清両国で進めることを清に提案するが、清は拒否した

 

③日本は朝鮮王宮を占領、政権を閔妃から、大院君を執政とする、開化派の親日政権に転換させた

 

④戦争の経過

□豊島沖の海戦(1894)によって日清戦争(1894-95)が始まった

・両国とも宣戦布告がないまま戦争が始まったが、開戦後に宣戦布告が互いになされた

□日本では政府と政党が協力して戦争を遂行

・広島に大本営が置かれた

・第七議会は広島で開かれた

平壌の戦い(1894)

・陸戦で清軍を撃退、清軍は朝鮮から撤退した

黄海海戦(1894)

・日本の連合艦隊が清の北洋艦隊を撃破

□北洋艦隊の基地である威海衛を占領(1895)

□清が降伏(1895)

 

下関条約(日清講和条約)を締結(1895)

□日本側全権は伊藤博文陸奥宗光、清側全権は李鴻章

山口県・下関の春帆楼で下関講和会議が開かれた

下関条約の内容

・清は朝鮮の独立を認める(清の宗主権の否定)

・台湾・遼東半島澎湖諸島を日本へ割譲する

・賠償金・2億両(テール)を支払う

・沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港

下関条約に基づいて日清通商航海条約を締結(1896)

領事裁判権・協定関税などを取り決めた、日本に有利な条約

 

⑥三国干渉(1895)

□ロシアがフランス・ドイツとともに、遼東半島の清への返還を日本に要求した

・日本は遼東半島を清に返還することとし、清は還付報奨金として3000万両を日本に支払うこととした

□日本国内では「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへ敵対する世論が高まった

・ロシアは清から遼東半島の旅順・大連の租借権などを得た(1898)

 

⑦台湾統治

台湾総督府を設置、海軍大将・樺山資紀が初代・台湾総督となった(1895)

・台湾では抵抗運動が起こった

□台湾総督・児玉源太郎のもとで後藤新平が民政を担当した(1898-1906)

・強硬姿勢を改め、統治を安定させていった

・土地調査事業や、台湾銀行設立(1899)などをおこない、植民地経営を本格的に進めた

(35)「軍事制度の改革」

①軍令を軍政から分離

参謀本部を設置(1878)

陸軍省の参謀局が、陸軍省から独立した軍令機関となった

・長官は参謀本部長(のちに参謀総長

参謀本部が陸海軍統合の機関となり、陸軍部と海軍部が置かれた(1886)

参謀本部の陸軍部と海軍部をそれぞれ陸軍参謀本部・海軍参謀本部と改称(1888)

□陸軍参謀本部参謀本部と改称(1889)

・海軍参謀本部は、海軍参謀部として海軍省の管轄となった(1889)

□海軍軍令部を設置(1893)

海軍省から独立した軍令機関

・長官は軍令部長

□海軍軍令部を軍令部と改称(1933)

・長官は軍令部総長

 

軍人勅諭(1882)

西周が起草

・軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の徳目を説いた