(34)「朝鮮問題」

①朝鮮国内の動き

□朝鮮では国王・高宗の父である大院君が実権を握っていたが、高宗の妃(閔妃)によって大院君は失脚させられ、閔妃の一族が実権を握った(1873)

・大院君は鎖国攘夷の政策をとっていた

閔妃親日的な開化政策をおこない、日本から軍事顧問を招いて新式軍隊を組織した

・待遇面などで旧式軍隊から新式軍隊に対する不満があった

 

②壬午軍乱(壬午事変・1882)

□大院君と旧式軍隊が結び、漢城でクーデターを起こした

・日本公使館などを襲撃した

□清軍がクーデターを鎮圧、大院君を拘束した

□朝鮮と済物浦条約を締結(1882)

・朝鮮に対して賠償金などを要求、公使館守備兵駐留権を得た

・同時に日朝修好条規続約を締結

□壬午軍乱の後、清は朝鮮に対する宗主権の強化を図った

閔妃親日政策を転換し、清への依存を強めた

 

③甲申事変(1884)

閔妃の一派(事大党)の政治に対し、開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らは国内改革のため日本に接近した

清仏戦争で清がフランスに敗れると(1884)、独立党は日本公使館の援助のもと漢城でクーデターを起こした

□開化派は新政権の樹立を宣言したが、清軍によって鎮圧された

金玉均・朴泳孝らは日本に亡命した

□朝鮮と漢城条約を締結(1884)

・朝鮮に対して謝罪や賠償金などを要求

□清と天津条約を締結(1885)

・日本側の全権は伊藤博文、清側の全権は李鴻章

・朝鮮から日清両国軍は撤兵、日清両国は朝鮮への軍事顧問派遣を中止した

・朝鮮に出兵する場合は相互に通知し合うこととした

 

④脱亜論

福沢諭吉は『時事新報』に「脱亜論」を発表した(1885)

□近代化できない朝鮮や清への期待をやめて、西洋諸国とともに歩むべきだという主張

 

⑤防穀令事件(1889)

□朝鮮・咸鏡道の地方官が、凶作のため穀物の道外への搬出を禁止した

□日本政府は、穀物を輸入できずに商人が被害を受けたとして、朝鮮に賠償金を要求した

(33)「条約改正」

寺島宗則(外務卿)

岩倉使節団の後、寺島宗則が条約改正交渉にあたった(国別に交渉)

関税自主権の回復についてアメリカと新条約を結んだ(1878)

・イギリスなどが反対し、新条約は発効されなかった

 

井上馨(外務卿・内閣制度成立後は第1次伊藤博文内閣で外務大臣

□列国共同の条約改正の予備会議を東京で開催した(1882)後、正式交渉にあたった(1886-87)

□東京・日比谷に鹿鳴館が建設され(1883年竣工・イギリス人のコンドルが設計)、舞踏会などが催された

井上馨の外交は「鹿鳴館外交」ともよばれ、当時のことを「鹿鳴館時代」ということもある

鹿鳴館での舞踏会など、欧米の文化を取り入れて日本の近代化を示そうとする政策を欧化政策という

領事裁判権の撤廃と輸入関税の一部引き上げを目指した

□外国人の内地雑居を認め、また領事裁判権の撤廃には、外国人判事を任用し、近代的な法律を制定することが条件とされた

・農商務大臣の谷干城やフランス人法律顧問のボアソナードらが反対、井上馨は外相を辞任した(1887)

井上馨の外相辞任後、民権派は三大事件建白運動を展開した

ノルマントン号事件(1886)

・イギリスの貨物船・ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没

・イギリス人の船長など乗組員は脱出、日本人乗客25人は全員死亡した

・神戸の領事の海難審判で船長らは無罪とされた(のちに横浜の領事の刑事裁判で船長は禁錮3ヶ月とされたが、賠償はなかった)

・この事件によって、領事裁判権撤廃の世論が高まった

 

大隈重信(第1次伊藤博文内閣・黒田清隆内閣で外務大臣

□条約改正の足がかりとしてメキシコと平等な日墨修好通商条約を締結(1888)

・日本側全権は陸奥宗光

領事裁判権撤廃を主眼に、列国間の対立を利用して国別の交渉をおこなった

アメリカ・ドイツ・ロシアと新条約を締結した(1889)が、イギリスが反対

・条約は発効しなかった

領事裁判権の撤廃には、大審院に限って外国人判事を任用することなどが条件とされたが、この交渉内容がロンドンの『タイムズ』に掲載された(1889)

大隈重信は、条約改正内容に反対する、玄洋社の来島恒喜に爆弾を投じられ、重傷を負った(1889・大隈襲撃事件)

・大隈襲撃事件の後、黒田清隆内閣は総辞職したが、首相の黒田と、大隈以外の閣僚は留任して三条実美の暫定内閣が成立した

 

青木周蔵(第1次山県有朋内閣・第1次松方正義内閣で外務大臣

□ロシアの東アジア進出を警戒するイギリスと条約交渉を進めていたが、大津事件によって中断した

大津事件(1891)

シベリア鉄道の起工式に出席するために訪日中のロシアの皇太子・ニコライが、滋賀の大津で、警固の巡査・津田三蔵に襲われて負傷した

・政府は大逆罪を類推適用して、津田三蔵を死刑にするよう働きかけたが、大審院長の児島惟謙は謀殺未遂罪を適用した無期徒刑とするよう指示した

大津事件後、青木周蔵外務大臣引責辞任した

・後任は榎本武揚

 

陸奥宗光(第2次伊藤博文内閣で外務大臣

陸奥宗光紀州藩出身

自由党陸奥宗光の外交を支持

□イギリスと日英通商航海条約を締結した(1894・日清戦争の直前)

・駐英公使・青木周蔵がロンドンで調印

日英通商航海条約の内容

領事裁判権を撤廃

関税自主権を一部回復

・片務的最恵国待遇を相互的最恵国待遇とする

居留地を廃止して内地雑居をみとめる

日英通商航海条約は1899年から実施された

・この時の外務大臣青木周蔵(第2次山県有朋内閣)

・有効期間は12年

日英通商航海条約締結後、これと同様の通商航海条約を各国と締結

・日米通商航海条約など

 

小村寿太郎(第2次桂太郎内閣で外務大臣

□日米通商航海条約を改正(1911)

関税自主権の回復を実現

・その後、各国と通商航海条約を改正した

(32)「初期議会」

帝国議会

帝国議会貴族院衆議院の二院制

貴族院は、皇族議員華族議員・勅任議員(勅撰議員と多額納税者議員)で構成

衆議院は、予算先議権以外は貴族院と対等とされた

 

②第一議会(第1回帝国議会)(1890-91)

□民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに、政府(第1次山県有朋内閣)の予算案の大幅削減を主張

・政府は立憲自由党の土佐派の協力を得て予算を成立させた

山県有朋は、「主権線」(国境)の防衛だけではなく、「利益線」(国家の安全や利益と関係する朝鮮などを含んだ地域)の防衛のためにも陸海軍の増強が必要であると説いた

 

③第二議会(1891)

□政府(第1次松方正義内閣)の海軍拡張予算案などに民党が反発

・薩摩出身の海軍大臣樺山資紀が、薩長の政府を擁護する、いわゆる「蛮勇演説」をおこなった

□政府の予算案は認められず、政府は衆議院を解散した

 

④第2回総選挙(1892)

□内務大臣の品川弥二郎が選挙干渉をおこなって民党を圧迫した

・警官らと民党関係者らが衝突、死傷者が出た

□総選挙では民党が吏党議席数を上回った

□第三議会(1892)

・民党が政府の選挙干渉を追及

・議会終了後、閣内の対立から第1次松方正義内閣は総辞職した

 

⑤第2次伊藤博文内閣(1892-96)

□枢密院議長であった伊藤博文が再び組閣

□首相の伊藤博文をはじめ、井上馨山県有朋黒田清隆大山巌など、元勲(維新に功績のあった政治家)が多数の内閣(「元勲内閣」・「元勲総出」)

□第四議会(1892-93)

・海軍拡張予算案に民党が反対

天皇の和衷協同の詔書(建艦詔書)によって自由党が政府に協力、予算案が可決された

・和衷協同の詔書とは、天皇宮廷費を節約して6年間毎年30万円ずつを支出、また官吏の俸給の10分の1を削減して、建艦の財源とするので、議会も政府に協力するようにと求める詔書

□第五議会(1893)

・政府との連携を強めつつあった自由党に対し、立憲改進党は、吏党であった国民協会などとともに、対外硬派[連合](対外硬六派)を形成、政府の漸進的な条約改正政策を批判した

・対外硬派は、安政条約の規定通りに外国人の内地雑居を認めない、「条約励行」などを主張した

・政府は衆議院を解散した

□第3回総選挙(1894)

自由党も対外硬派も過半数に達しなかった

□第六議会(1894)

・対外硬派が政府の外交政策を批判、政府は衆議院を解散した

(31)「衆議院議員選挙の始まり」

衆議院議員選挙法発布(1889)

大日本帝国憲法と同時に発布

□満25歳以上の男子で直接国税(地租・所得税・のちに営業税も)15円以上の納入者が選挙人となった

有権者は全人口の約1.1%:地主・豪農が中心

□被選挙人は満30歳で、ほかの条件は選挙人と同じ

小選挙区制で議員定数は300人

 

黒田清隆首相が超然主義を表明(1889)

超然主義とは、政府の政策を政党の動向で左右しないという主義

・第1次伊藤博文内閣(1885-88)のあと、黒田清隆内閣(1888-89)

 

③第1回衆議院議員総選挙(1890)

□民党の立憲自由党が130議席立憲改進党が41議席を獲得、過半数を占めた

・反政府の野党を民党、政府支持の政党を吏党とよんだ

吏党では、旧立憲帝政党系の大成会が79議席を獲得

□総選挙の前に旧自由党系が再建され、総選挙の後に立憲自由党が結成された(1890)

板垣退助・大井憲太郎・河野広中らの各派が合流

・党の紛糾・分裂の後、板垣退助を党首として党名を自由党に改称、分裂を収束させた(1891)

(30)「諸法典の編纂」

①刑法関係の法律

□新律綱領を公布(1870)

・明や清の律を基礎とした

□改定律例を公布(1873)

・新律綱領の処罰を軽減

□刑法を公布(1880)

・フランス人法律顧問・ボアソナードが草案を作成

・法律の規定がなければ罰しないという罪刑法定主義を採用

・皇室に対する罪である、大逆罪・不敬罪を規定

・のちに刑法をドイツ法系に改正した(1907)
 

民法の一部を公布(1890)

□フランス人法律顧問・ボアソナードが草案を作成

1893年から施行される予定であったが、フランスの自由主義的な民法が日本の家族制度を破壊するといった理由などから、民法典論争が起こり、この民法は施行されなかった

帝国大学教授の穂積八束は「民法出テゝ忠孝亡ブ」と、民法を批判した

□梅謙次郎・穂積陳重らが民法を修正し、改めて民法が公布された(1896-98)

・戸主の権限が強い日本の家族制度にかなった内容に修正された

民法典論争の際には、梅謙次郎はボアソナード民法を断行すべきとの立場であったが、穂積陳重は反対の立場であった
 

③商法を公布(1890)

民法典論争の影響で、内容を修正して改めて公布した(1899)
 

④訴訟法関係の法律

□治罪法を公布(1880)

・フランス人法律顧問・ボアソナードが草案を作成

民事訴訟法を公布(1890)

・ドイツ法を模範とした

刑事訴訟法を公布(1890)

・治罪法を改正、ドイツ法を模範とした

(29)「大日本帝国憲法」

憲法草案(1886-88)

伊藤博文井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らとともに、ドイツ人顧問のロエスレルやモッセの助言を受けて憲法と付属諸法令を起草した

□完成した憲法草案は枢密院(1888年設置)で天皇臨席のもとに非公開で審議された

伊藤博文は首相を辞して枢密院議長となった

・枢密院は憲法制定後も天皇の諮問機関として位置づけられた(憲法で規定)

 

大日本帝国憲法明治憲法)発布(1889)

□発布日は2月11日(紀元節

□7章76条

天皇が定め、国民に与えるかたちの欽定憲法

 

天皇

□神聖不可侵であり、国家の元首として統治権を総攬する存在

□陸海軍の統帥・宣戦・講和・条約締結・緊急勅令発布などの天皇大権を保持

天皇大権は議会の権限外

・陸海軍の統帥権は内閣からも独立して天皇に直属(統帥権の独立)

憲法と同時に皇室典範を制定

皇位の継承などを規定、摂政を復活