(33)「条約改正」

寺島宗則(外務卿)

岩倉使節団の後、寺島宗則が条約改正交渉にあたった(国別に交渉)

関税自主権の回復についてアメリカと新条約を結んだ(1878)

・イギリスなどが反対し、新条約は発効されなかった

 

井上馨(外務卿・内閣制度成立後は第1次伊藤博文内閣で外務大臣

□列国共同の条約改正の予備会議を東京で開催した(1882)後、正式交渉にあたった(1886-87)

□東京・日比谷に鹿鳴館が建設され(1883年竣工・イギリス人のコンドルが設計)、舞踏会などが催された

井上馨の外交は「鹿鳴館外交」ともよばれ、当時のことを「鹿鳴館時代」ということもある

鹿鳴館での舞踏会など、欧米の文化を取り入れて日本の近代化を示そうとする政策を欧化政策という

領事裁判権の撤廃と輸入関税の一部引き上げを目指した

□外国人の内地雑居を認め、また領事裁判権の撤廃には、外国人判事を任用し、近代的な法律を制定することが条件とされた

・農商務大臣の谷干城やフランス人法律顧問のボアソナードらが反対、井上馨は外相を辞任した(1887)

井上馨の外相辞任後、民権派は三大事件建白運動を展開した

ノルマントン号事件(1886)

・イギリスの貨物船・ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没

・イギリス人の船長など乗組員は脱出、日本人乗客25人は全員死亡した

・神戸の領事の海難審判で船長らは無罪とされた(のちに横浜の領事の刑事裁判で船長は禁錮3ヶ月とされたが、賠償はなかった)

・この事件によって、領事裁判権撤廃の世論が高まった

 

大隈重信(第1次伊藤博文内閣・黒田清隆内閣で外務大臣

□条約改正の足がかりとしてメキシコと平等な日墨修好通商条約を締結(1888)

・日本側全権は陸奥宗光

領事裁判権撤廃を主眼に、列国間の対立を利用して国別の交渉をおこなった

アメリカ・ドイツ・ロシアと新条約を締結した(1889)が、イギリスが反対

・条約は発効しなかった

領事裁判権の撤廃には、大審院に限って外国人判事を任用することなどが条件とされたが、この交渉内容がロンドンの『タイムズ』に掲載された(1889)

大隈重信は、条約改正内容に反対する、玄洋社の来島恒喜に爆弾を投じられ、重傷を負った(1889・大隈襲撃事件)

・大隈襲撃事件の後、黒田清隆内閣は総辞職したが、首相の黒田と、大隈以外の閣僚は留任して三条実美の暫定内閣が成立した

 

青木周蔵(第1次山県有朋内閣・第1次松方正義内閣で外務大臣

□ロシアの東アジア進出を警戒するイギリスと条約交渉を進めていたが、大津事件によって中断した

大津事件(1891)

シベリア鉄道の起工式に出席するために訪日中のロシアの皇太子・ニコライが、滋賀の大津で、警固の巡査・津田三蔵に襲われて負傷した

・政府は大逆罪を類推適用して、津田三蔵を死刑にするよう働きかけたが、大審院長の児島惟謙は謀殺未遂罪を適用した無期徒刑とするよう指示した

大津事件後、青木周蔵外務大臣引責辞任した

・後任は榎本武揚

 

陸奥宗光(第2次伊藤博文内閣で外務大臣

陸奥宗光紀州藩出身

自由党陸奥宗光の外交を支持

□イギリスと日英通商航海条約を締結した(1894・日清戦争の直前)

・駐英公使・青木周蔵がロンドンで調印

日英通商航海条約の内容

領事裁判権を撤廃

関税自主権を一部回復

・片務的最恵国待遇を相互的最恵国待遇とする

居留地を廃止して内地雑居をみとめる

日英通商航海条約は1899年から実施された

・この時の外務大臣青木周蔵(第2次山県有朋内閣)

・有効期間は12年

日英通商航海条約締結後、これと同様の通商航海条約を各国と締結

・日米通商航海条約など

 

小村寿太郎(第2次桂太郎内閣で外務大臣

□日米通商航海条約を改正(1911)

関税自主権の回復を実現

・その後、各国と通商航海条約を改正した