(32)「初期議会」

帝国議会

帝国議会貴族院衆議院の二院制

貴族院は、皇族議員華族議員・勅任議員(勅撰議員と多額納税者議員)で構成

衆議院は、予算先議権以外は貴族院と対等とされた

 

②第一議会(第1回帝国議会)(1890-91)

□民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに、政府(第1次山県有朋内閣)の予算案の大幅削減を主張

・政府は立憲自由党の土佐派の協力を得て予算を成立させた

山県有朋は、「主権線」(国境)の防衛だけではなく、「利益線」(国家の安全や利益と関係する朝鮮などを含んだ地域)の防衛のためにも陸海軍の増強が必要であると説いた

 

③第二議会(1891)

□政府(第1次松方正義内閣)の海軍拡張予算案などに民党が反発

・薩摩出身の海軍大臣樺山資紀が、薩長の政府を擁護する、いわゆる「蛮勇演説」をおこなった

□政府の予算案は認められず、政府は衆議院を解散した

 

④第2回総選挙(1892)

□内務大臣の品川弥二郎が選挙干渉をおこなって民党を圧迫した

・警官らと民党関係者らが衝突、死傷者が出た

□総選挙では民党が吏党議席数を上回った

□第三議会(1892)

・民党が政府の選挙干渉を追及

・議会終了後、閣内の対立から第1次松方正義内閣は総辞職した

 

⑤第2次伊藤博文内閣(1892-96)

□枢密院議長であった伊藤博文が再び組閣

□首相の伊藤博文をはじめ、井上馨山県有朋黒田清隆大山巌など、元勲(維新に功績のあった政治家)が多数の内閣(「元勲内閣」・「元勲総出」)

□第四議会(1892-93)

・海軍拡張予算案に民党が反対

天皇の和衷協同の詔書(建艦詔書)によって自由党が政府に協力、予算案が可決された

・和衷協同の詔書とは、天皇宮廷費を節約して6年間毎年30万円ずつを支出、また官吏の俸給の10分の1を削減して、建艦の財源とするので、議会も政府に協力するようにと求める詔書

□第五議会(1893)

・政府との連携を強めつつあった自由党に対し、立憲改進党は、吏党であった国民協会などとともに、対外硬派[連合](対外硬六派)を形成、政府の漸進的な条約改正政策を批判した

・対外硬派は、安政条約の規定通りに外国人の内地雑居を認めない、「条約励行」などを主張した

・政府は衆議院を解散した

□第3回総選挙(1894)

自由党も対外硬派も過半数に達しなかった

□第六議会(1894)

・対外硬派が政府の外交政策を批判、政府は衆議院を解散した