(7)「大政奉還・王政復古」

薩長連合(薩長同盟・1866)

薩摩藩長州藩もイギリスに接近していった

薩長連合の前から、薩摩藩は、長州藩がイギリスの商人・グラバーから武器を買うことを仲介するなど、結びつきを強めていた

薩摩藩は第二次長州征討の出兵を拒否

土佐藩出身の坂本龍馬中岡慎太郎らの仲介で薩長連合の密約が実現

薩摩藩長州藩は反幕府の態度を固める


②第二次長州征討(1866)

幕府軍の敗北が続いた

□将軍・徳川家茂大坂城で病死したため、 それを理由に戦闘を中止

徳川慶喜が15代将軍となった


大政奉還(1867)

薩摩藩長州藩の武士たちは、武力で幕府を倒そうとしていたが、土佐藩公武合体路線であった

坂本龍馬後藤象二郎が、土佐藩・前藩主の山内豊信(容堂)を通して徳川慶喜大政奉還を勧告した

徳川慶喜は提案を受け入れ、朝廷に大政奉還の上表を提出

・朝廷に政権を返上した後、徳川家を含めた諸侯の連合政権をつくるという、公議政体論に基づく構想があった

薩摩藩長州藩岩倉具視と画策して朝廷から討幕の密勅を得たが、その日に大政奉還がなされたため、討幕の名目を失った


王政復古の大号令(1867)

薩摩藩長州藩は朝廷でクーデターを起こし、王政復古の大号令を発した

江戸幕府を廃止して、天皇を中心とする、徳川家を除いた新政府が成立した

王政復古の大号令の内容

征夷大将軍・摂政・関白を廃止

天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設置

総裁は有栖川宮熾仁親王


⑤小御所会議(1867)

王政復古の大号令の直後に、三職による会議を開いた

徳川慶喜内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じることとした
徳川慶喜は辞官納地を拒否