(6)「薩摩・長州と列国」

①薩英戦争(1863)

生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島を攻撃

 

②四国艦隊下関砲撃事件(1864)

□第一次長州征討を契機に、イギリス公使のオールコックの主導により、長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの艦隊が長州藩の下関を砲撃し、砲台などを占領した

 

③列国への対応の変化

□薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件により、攘夷の実力行使が現実的には不可能なことが明らかになっていった

□薩英戦争後、薩摩藩はイギリスに接近、西郷隆盛大久保利通らが藩政を指導した

 

長州藩の動き

高杉晋作らが奇兵隊などの諸隊を率いて挙兵し、保守派から藩の実権を奪い、藩論を倒幕へと転換させた(1865)

桂小五郎木戸孝允)・高杉晋作らが藩の実権を握った

・イギリスに接近し、軍事力を強化した(大村益次郎が軍事指導)

・幕府は、領地削減などの要求に応じない長州藩に対し、再び長州藩を征討すること(第二次長州征討)を宣言

 

⑤列国の動き

□列国は兵庫沖に艦隊を送って圧力をかけ、朝廷から通商条約の勅許を得た(1865)

・朝廷は兵庫の開港を認めなかった

□改税約書締結(1866)

・平均20%であった輸入関税を一律5%に引き下げることとした

□イギリス公使のパークスは、統治能力の低くなった幕府よりも、天皇を中心とする雄藩連合の政権に期待するようになった

□フランス公使のロッシュは幕府を支援

・幕府はフランスの協力で横須賀製鉄所を建設