(46)「明治末期の国内政治」

①第1次西園寺内閣(1906-08)

□帝国国防方針の制定(1907)

・陸軍を17師団から25師団へ増強することを目指した

・戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を中心とした海軍の艦隊(八・八艦隊)の建設を目指した

 

②第2次桂内閣(1908-11)

□戊申詔書発布(1908)

日露戦争後の社会の風潮を是正するため、国民に対して虚飾を戒め勤勉を奨励した

・「上下心ヲ一ニシテ忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ・・・」

□地方改良運動

・戊申詔書を契機に内務省が中心となって本格的に推進

・地方の財政再建や、国民教化による民心の向上を目指した

・青年会が再編・強化された

□帝国在郷軍人会設立(1910)

在郷軍人会(予備役・後備役の軍人、退役軍人の団体)を統合

(45)「満州進出・辛亥革命・日露協約」

①旅順に関東都督府を設置(1906)

□関東州(遼東半島南端の租借地)を統治
 

②大連に半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立(1906)

□ロシアから譲り受けた長春・旅順間の鉄道や沿線の鉱山などを経営

□初代満鉄総裁は後藤新平
 

③日本の満州進出に対するアメリカの反応

ポーツマス条約締結直後(1905)、アメリカの鉄道企業家ハリマンが長春・旅順間の鉄道を日米共同経営にすること(ハリマン計画)を提案、桂太郎首相は桂・ハリマン協定でこの計画を容認したが、小村寿太郎が反対し、協定は破棄された

□門戸開放を主張するアメリカの国務長官・ノックスが、列国の国際財団による満鉄の運営(満鉄の中立化)を提案したが、日本・ロシア・イギリス・フランスが拒否した(1909)

□カリフォルニアを中心に日本人移民排斥運動が起こった(1906)

・サンフランシスコでは日本人学童の東洋人学校への転校を強制する事件があった
 

辛亥革命(1911-12)によって清朝が滅び(宣統帝が退位)、中華民国が成立(1912)

 

⑤日露協約

□第1次日露協約(1907)

・日本の南満州、ロシアの北満州での勢力範囲を確定

・日本の韓国、ロシアの外蒙古での特殊権益を相互に承認

□第2次日露協約(1910)

アメリカの満鉄中立化案を拒否して日・露の鉄道権益確保を積極化

□第3次日露協約(1912)

内蒙古での日・露の勢力範囲を確定

(44)「韓国併合への過程」

①日韓議定書締結(1904)

□日露開戦の直後に締結

□戦争遂行に必要な便宜を韓国が提供することとした

・「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スルコトヲ得ル」こととした

 

②第1次日韓協約締結(1904)

□日本の推薦者を財政・外交の顧問(「財務顧問」・「外交顧問」)とすることとした

 

③桂・タフト協定(1905)

桂太郎(首相兼外相)とタフト(アメリカ特使)との間で交わされた

□日本の韓国指導権と、アメリカのフィリピン統治を相互に承認

 

日英同盟改定(第2次日英同盟・1905)

□日本の韓国指導権と、イギリスのインド統治を相互に承認

・適用をインドにまで拡大

 

⑤第2次日韓協約締結(韓国保護条約・乙巳保護条約・1905)

ポーツマス条約締結後に締結された

□韓国の外交権を接収、保護国化した

・「在東京外務省」で韓国の外交を行うこととした

□統監府を設置(1905)、伊藤博文が初代の統監となった

・「統監ハ専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城ニ駐在シ」

 

⑥ハーグ密使事件(1907)

□オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に韓国皇帝・高宗が密使を送り、第2次日韓協約の無効を訴えたが、韓国の会議への参加は拒否された

□事件後、高宗は退位を迫られ、子の純宗が皇帝となった

 

⑦第3次日韓協約締結(1907)

□ハーグ密使事件をきっかけに締結された

□韓国の内政権を掌握した

・「韓国政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ処分」は統監の承認を必要とした

□秘密覚書で韓国の軍隊を解散させた

・軍隊解散に反対する韓国軍の一部が反日武装闘争(義兵運動)を起こした

 

伊藤博文暗殺事件(1909)

安重根満州ハルビン駅で元統監の伊藤博文を暗殺

 

韓国併合条約締結(1910)

□韓国を併合、日本領とした

・「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且ツ永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」

□地域名を朝鮮に改めた

朝鮮総督府が統監府に代わって京城に設置された

陸軍大臣で統監の寺内正毅が初代朝鮮総督となった

朝鮮総督府天皇に直属、朝鮮の行政・軍事を担った

漢城は正式に京城と改称された

石川啄木韓国併合について「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ

 

朝鮮総督府が土地調査事業を実施(1910-18)

□土地の測量や所有権者の調査などをおこなった

□所有権の不明確などを理由に農地や山林が接収された

・接収された土地は東洋拓殖会社や日本人の地主に払い下げられることもあった

(43)「日露戦争」

①開戦(1904)

□海軍が遼東半島旅順港を攻撃、仁川沖でも海戦

旅順港はロシア太平洋艦隊の基地であった

 

②戦争の経過

□陸軍は、遼陽会戦などに勝利して満州を北上(1904)、その一方で乃木希典司令官の第三軍が旅順を攻撃、203高地を攻略する(1904)などして、旅順を占領した(1905)。その後奉天会戦に勝利(1905)

□海軍は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した(1905)

・海軍の連合艦隊司令長官東郷平八郎、作戦参謀は秋山真之

樺太を占領(1905)

 

ポーツマス条約締結(1905)

アメリカ大統領・セオドア・ローズベルトの仲介で、アメリカのポーツマスで日露講和会議(ポーツマス会議)が開かれた

・セオドア・ローズベルトに和平の仲介を打診するため、金子堅太郎をアメリカに派遣していた

□講和の背景:両国とも戦争継続が困難であった

・戦争は日本の勝利で展開していたが、日本は武器・兵士の補給が限界に達しており、また戦費の調達のために国民の税負担は大きかった

・ロシアでは血の日曜日事件を発端とする第一次ロシア革命が起こっていた

□日本側・小村寿太郎、ロシア側・ウィッテの間で調印

□条約の内容

・韓国に対する日本の指導・保護・監督権を認める

・旅順・大連の租借権と、長春・旅順間の鉄道(東清鉄道の一部)およびその付属の権利を譲渡する

・北緯50度以南の樺太と付属の諸島を譲渡する

沿海州カムチャッカの漁業権を認める

□ロシアから賠償金は得られなかった

 

④日比谷焼打事件(1905)

□賠償金が得られないなど、条約内容に不満を持った人々が東京で暴動を起こしたが、政府は戒厳令をしいて鎮圧

 

⑤軍事費

□軍事費は約17億円で約13億円を国債(外債約7億円・内債約6億円)に依存した

日本銀行副総裁・高橋是清を派遣してアメリカやイギリスで外債を募集した

(42)「ロシアとの戦争に対する国内世論」

①対露強硬論(主戦論・開戦論)

貴族院議長・近衛篤麿を中心に対露強硬論を主張する国民同盟会が結成される(1900)が、清露間の満州還付協定締結を機に解散(1902)

 ⇒しかしロシアの満州撤兵が実行されず、対外硬同志会(のちに対露同志会に改称)を結成(1903)

・近衛篤麿が会長、神鞭知常・頭山満らが参加

□戸水寛人ら東大七博士が対露強硬論を主張

・桂首相や小村外相らに七博士意見書を提出(1903)

□『万朝報』(黒岩涙香)・『国民新聞』(徳富蘇峰)などの新聞が主戦論を展開

・「万朝報」は最初、非戦論の立場であったが主戦論に転じた(1903)

 ⇒このため非戦論を主張する幸徳秋水堺利彦内村鑑三が朝報社(「万朝報」の発行会社)を退社
 

②非戦論(反戦論)

□朝報社を退社した社会主義者幸徳秋水堺利彦平民社を立ち上げて「平民新聞」を発行(1903)、非戦論を展開した

内村鑑三キリスト教人道主義の立場から非戦論を主張

□開戦後、与謝野晶子与謝野鉄幹主宰の『明星』に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」として「君死にたまふこと勿れ」を発表(1904)

大町桂月与謝野晶子を批判

□大塚楠緒子が『太陽』に、戦地の夫を思う「お百度詣で」を発表(1905)

(41)「日露関係と日英同盟」

①日露協商論(満韓交換論)

□ロシアの満州での行動を認める代わりに、日本の韓国への優越権をロシアに認めさせようという考え

・同時に福建省に権益を拡大しようとする南進論でもあった

伊藤博文井上馨らが主張

 

日英同盟

□イギリスと同盟を結んでロシアをおさえ、韓国での権益を守ろうとする考え(北進論)

山県有朋桂太郎小村寿太郎らが主張

 

日英同盟協約締結(1902)

□ロシアの南下策に対抗して締結

□イギリスは「光栄ある孤立」の方針を転換して同盟を結んだ

□協約の内容

・日本の清国・韓国、イギリスの清国における利益を相互に尊重する

・日本またはイギリスの一方が他国と交戦の際は他方は厳正中立を守る

・日本またはイギリスの一方が2か国以上と交戦の際は他方は援助・参戦する