(42)「ロシアとの戦争に対する国内世論」

①対露強硬論(主戦論・開戦論)

貴族院議長・近衛篤麿を中心に対露強硬論を主張する国民同盟会が結成される(1900)が、清露間の満州還付協定締結を機に解散(1902)

 ⇒しかしロシアの満州撤兵が実行されず、対外硬同志会(のちに対露同志会に改称)を結成(1903)

・近衛篤麿が会長、神鞭知常・頭山満らが参加

□戸水寛人ら東大七博士が対露強硬論を主張

・桂首相や小村外相らに七博士意見書を提出(1903)

□『万朝報』(黒岩涙香)・『国民新聞』(徳富蘇峰)などの新聞が主戦論を展開

・「万朝報」は最初、非戦論の立場であったが主戦論に転じた(1903)

 ⇒このため非戦論を主張する幸徳秋水堺利彦内村鑑三が朝報社(「万朝報」の発行会社)を退社
 

②非戦論(反戦論)

□朝報社を退社した社会主義者幸徳秋水堺利彦平民社を立ち上げて「平民新聞」を発行(1903)、非戦論を展開した

内村鑑三キリスト教人道主義の立場から非戦論を主張

□開戦後、与謝野晶子与謝野鉄幹主宰の『明星』に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」として「君死にたまふこと勿れ」を発表(1904)

大町桂月与謝野晶子を批判

□大塚楠緒子が『太陽』に、戦地の夫を思う「お百度詣で」を発表(1905)