(26)「民権運動の激化と再編」

①岐阜事件(1882)

□岐阜で遊説中の板垣退助が暴漢に襲われて負傷した

 

板垣退助らが外遊(1882-83)

伊藤博文井上馨らが三井から費用を出させて板垣退助後藤象二郎らを洋行させた

立憲改進党が非難、自由党内部からも批判の声が上がり、自由党内に内紛が生じた

自由党大隈重信と三菱の関係を批判するなど、両党の対立は深まった

 

③騒擾事件(激化事件):自由党員や農民などによる事件

□福島事件(1882)

福島県令・三島通庸の、労役を課した道路建設に対して農民らが反対、自由党幹部で福島県会議長の河野広中らが逮捕・処罰された

□高田事件(新潟・1883)

□群馬事件(1884)

加波山事件(1884)

自由党員が栃木県令・三島通庸の暗殺を計画したが事前に発覚、茨城の加波山で蜂起

秩父事件(埼玉・1884)

・困民党を称する農民らが負債の減免などを要求、大規模な蜂起となった

□名古屋事件(1884)

□飯田事件(長野・1884)

□大阪事件(1885)

・甲申事変(1884)の後、旧自由党員の大井憲太郎らが、朝鮮の内政改革を計画していたが、事前に発覚

□静岡事件(1886)

 

④民権運動の衰退

□騒擾事件の混乱によって本来の政党活動が難しくなっていった

□党員の統制がきかなくなった自由党は解党した(1884…加波山事件の後)

大隈重信立憲改進党から脱党(1884)

 

大同団結運動(1886-89)

□内閣制度の発足(1885)の後、星亨・後藤象二郎が中心となり、国会開設に備えて政府に対抗するため、勢力を結集した

・かつての自由党立憲改進党の対立を越えての団結

□三大事件建白運動(1887)

外務大臣井上馨の条約改正交渉への批判をきっかけにして、「言論・集会の自由」・「地租の軽減」・「外交失策の回復(対等条約の締結)」の3つの要求を掲げた運動を展開、建白書を元老院に提出した

□保安条例発布(1887)

・星亨・片岡健吉・中江兆民尾崎行雄ら多くの民権派が皇居の3里外に3年以内の追放となった

後藤象二郎黒田清隆内閣の逓信大臣となり、大同団結運動から離脱(1889)