(5)「攘夷派への対応・攘夷派の挙兵」

①朝廷の動き

長州藩が急進派の公家と結んで朝廷を尊王攘夷論の方向へ導く

□朝廷は、将軍・徳川家茂を上洛させ、幕府に「文久3年(1863)5月10日」に攘夷を決行するよう、約束させた

・幕府は攘夷決行を諸藩に命じた

長州藩は、文久3年(1863)5月10日、関門海峡を通過する外国船を砲撃(長州藩外国船砲撃事件)

 

八月十八日の政変(1863)

薩摩藩会津藩公武合体派の公家とともに朝廷の実権を奪い、急進派の公家(三条実美・沢宣嘉ら7人)と長州藩の勢力を京都から追放した

尊王攘夷派の挙兵

天誅組の変(1863)

・公家の中山忠光、土佐の吉村虎太郎らが大和の五条の代官所を襲撃

□生野の変(1863)

・公家の沢宣嘉、福岡の平野国臣らが但馬の生野の代官所を襲撃

天狗党の乱(1864)

・水戸の天狗党(藤田小四郎・武田耕雲斎ら)が筑波山で挙兵

 

池田屋事件(1864)

□京都の池田屋に集まった長州藩などの尊王攘夷派を新選組が殺傷

禁門の変蛤御門の変・1864)

池田屋事件を契機に長州藩が京都に攻めのぼった

長州藩は、幕府側の薩摩藩会津藩桑名藩に敗れた

⑥第一次長州征討(1864)

・幕府は、朝廷に長州征討の勅命を出させ、長州に征討軍を送ることとした

長州藩では保守派が実権を握り、戦わずに幕府へ従う態度を示し、藩内の尊王攘夷派を弾圧した