(20)「明治初期の国際関係」

岩倉使節団を欧米へ派遣(1871-73)

□条約改正の予備交渉と欧米の視察が目的

□正使が岩倉具視で、木戸孝允大久保利通伊藤博文らが副使として参加した

・津田梅子・山川捨松らの女子留学生も同行した

日清修好条規締結(1871)

□日本側の全権は伊達宗城、清側の全権は李鴻章

□開港と領事裁判権を相互に認め合った、対等な条約内容

□日本側は対等な内容に不満で1873年になって批准

 

③明治六年の政変(1873)

西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣らの参議が征韓論を唱える

征韓論とは、鎖国政策をとる朝鮮を、武力を背景に開国させようという主張

西郷隆盛を朝鮮に派遣して開国の交渉をさせることが、政府で決定された

・この決定は岩倉使節団の帰国前の、いわゆる「留守政府」での決定であった

岩倉使節団が帰国し、大久保利通木戸孝允らは国内の整備を優先させるべきだとして西郷隆盛らに反対した

西郷隆盛征韓論を唱えていた参議(征韓派)は一斉に参議を辞して政府を去った

・明治六年の政変後は大久保利通が政府の中心となった

 

台湾出兵(1874)

□台湾に漂着した琉球の漁民が原住民に殺害された(1871)

・清は台湾の原住民を「化外の民」とし、清に責任はないとした

西郷従道西郷隆盛の弟)が台湾へ出兵

大久保利通が清と交渉、イギリスのウェードの調停もあり、清は日本の出兵を正当なものとした

木戸孝允台湾出兵に反対して下野

 

江華島事件(1875)

□朝鮮沿岸での日本の軍艦の挑発行動に対して朝鮮側が砲撃、日本側も報復攻撃した

□日朝修好条規締結(1876)

江華島事件をきっかけに朝鮮に圧力をかけて締結

・釜山・仁川・元山を開港

・日本の関税免除や領事裁判権を認めた不平等条約

 

琉球処分

琉球王国薩摩藩支配下にありつつ、同時に清を名目上は宗主国としていた

琉球王国琉球藩とし、国王の尚泰藩王として華族に列した(1872)

□政府は警察・軍隊を派遣して琉球藩の廃藩を断行、沖縄県を設置した(1879)

沖縄県設置後も旧来の税制度などは残された

 

樺太・千島交換条約締結(1875)

榎本武揚がロシアと交渉

樺太をロシア領、千島全島を日本領とした

 

小笠原諸島の領有を宣言、アメリカ・イギリスに通告(1876)

内務省の管轄とした